京極堂と仲間達(二)

5月15日鬼談
京極さんの新作が出ると聞けば京極堂シリーズを期待してしまい、そうでなければがっかりしてしまう 読者の性が、京極さんには申し訳なく、でも恨めしく、読めば面白いのにどこかもやもやして落ち着かない。

「幽談」「冥談」「眩談」と読んできて、なんとなく感じた捉えどころのなさに感想も書けなかったが、「鬼談」で ふと心が止まった。
鬼、である。
日本人がイメージするような節分の鬼、ナマハゲ、そういった存在ではない本来の鬼の物語。

ただ京極さんのこういう短編は、文章が頭に馴染むまでとても時間がかかる。
文章が難解なわけでなく、もちろん文章として読めるのだが、それが物語として浮かび始めたのは「鬼慕」から だった。
最後まで読んで、また最初から読み始めれば今度は理解できるのだが、今回は特に形ある「鬼」のイメージに捕らわれたからだろう。

個人的にレイアウトで表現している「鬼情」は苦手だ。
文章はきちんと並んでいて欲しいというタイプなので、この書き方から情緒を引き出す能力がないのが辛い。
イラストマップや雑誌の写真が散らばってるページのように、文章があちこちにとんでる紙面は本当に苦手なのだ。
その意味で「鬼情」をちゃんと味わえないのは寂しい。

通して読めば怖さ、面白さはさすがで、特に「鬼慕」でにやりとしてしまった。
あの話だよね、そうだった。
よく取り上げられる話だけど、京極さんにかかれば怖い、面白い。
でも最後にこう来るか?
むしろここでこの言葉を言わずに断ち切って欲しかったかも。

これらの物語を中禅寺秋彦の言葉で語って欲しいと、切に思う。
でもそうすれば、「この世には不思議なこともあるのだよ。」になってしまうだろうか。

この感想を書いていた時に、大山のぶ代さんのニュースを見た。
この病気が鬼の物語になる。
それがただただ哀しかった。

読後、京極さんの「インタビュー」を読んだ。
読後にこのインタビューを読めば、よりいっそうわかりやすい。

(2015年5月15日の日記)
11月17日 大屋書房
神保町は靖国通り沿いにある大屋書房は江戸時代の和本、浮世絵、古地図を専門に扱うお店。
大きなショーウィンドーにいつも古地図や妖怪の絵などが飾られていてずっと気になっていたが、あまりに専門的過ぎて、さらにお値段も高いだろうし、私には敷居が高いよなあと入るのをためらっていた。

ところが先日「姑獲鳥の夏 Perfect book」を読んでいたら、この大屋書房が映画「姑獲鳥の夏」の京極堂のモデルになったと書いてあった。
それなら行かねば!
しかもちょうど江戸時代でちょっと調べていることがあって、それなら漠然と入るよりも目的を持って行けるかな?と勇気を奮い起こして神保町へ。

確かに映画で京極堂はこんな雰囲気だったなあと思う。
棚にぎっしり並べられた和本に毛筆手書きの題名が旗のように並んでいる。
壁には古地図や浮世絵が飾られ、積み重ねられ、最初の緊張もどこへやら、つい見入ってしまった。

で、ふと思い出したのだが、以前京極さんのトークライブ観に行った時に展示されていた京極さんの写真の1枚、ここだったんだなあと納得。
(「ひとりごと」参照)。

お店には可愛らしい女性が1人、店番をしていたが、声をかけるとてっきりお客さんだと思っていたお男性が返事してくれてびっくり。
な、なんていうか一気に緊張が高まった(笑)。
でも質問してみると思いがけないほど気さくに教えてくれて、しかも私が探している資料はここにはないけれど、と心当たりのある場所を2,3紹介してくれた。
質問に答えてくれるその表情があまりにも楽しそうで、「書楼弔堂 破暁」じゃないけど、椅子出して来て膝つき合わして何時間でもお話聞きたいほど。

店内もよく見てみると、江戸時代の専門書だけでなく、ムックなどで出ているような妖怪辞典や画集、入門書、紹介本に京極さんや水木しげるさんの本なども たくさんあって、きっと映画「姑獲鳥の夏」公開以降京極ファンのお客さんも増えたんだろうなあと思った。
入る前はかなり緊張していたが、入ってみたら京極堂に自分もいるような不思議な空間で大満足。

和本は手に取ってみる勇気はなかったが(笑)、「書楼弔堂 破暁」の表紙にもなっている月岡芳年の画集の多さに驚いた。
残念ながら私の好きな鰭崎英朋は見つけることができなかったけれど。

お店を出てさらに神保町をぶらぶらしていたら、三省堂の地下にある方針亭(レストラン)でオクトーバーフェストフェアやってて、あっここでお昼にすれば良かったと後悔しきり。
ドトールで軽く食べちゃってたんだよなあ・・・。

★東京都千代田区Kanda Jinbocho, 1丁目1
(2014年11月17日の日記)
10月25日書楼弔堂 破暁 探書陸 未完
「書楼弔堂 破暁」最終話「未完」に関しては、あるサプライズがあることを知っていた。
ネタバレになってなくても、京極読者ならわかってしまう悲しいサプライズ。
知らないほうが良かったなあと思いながら読み始めたが、確かにサプライズはあった。
でも最後の最後にそれ以上のサプライズがあって大満足の読後感だった。

もうひとつ、読み終える前に「こちら」の インタビューも読んでいたので、このインタビューの後半部分もすとんと腑に落ちた。

書きにくい割にわかりやすいネタバレになってしまうのだが(笑)、「猫」、この存在が「あっち」に関わると思っていたら「こっち」にも 関わっていたとは。
後で「高遠」をWikipeiaで追ってみたが、まあうまくまとめたものだと改めて思う。

通して読んでみて、最初と最後、そのインパクトに比べて途中部分がどうしてもだるく感じることはあったと思う。
京極堂シリーズなら事件があって、その伏線とも言うべき薀蓄であり、心理描写であり、風景であることろから
緊張感が途切れないが、こちらはどうしても目が素通りしてしまい、慌てて戻って読み直すことが多々あった。
最終話でそれがなかったのは、書楼弔堂の主人が動き始めたのと、パワフルな馬丁さんと猫のおかげかも。

続編が予定されているのも楽しみだが、ここまで来たのだから、そのままあのシリーズにも繋げて欲しいし、やっぱり あちらもあちらで書いて欲しい、そんな飢餓感をより強く感じた。

他シリーズに比べてこのシリーズは尽きることなく続けることが出来そうだ。
この世に本がある限り、歴史に人がいる限り。
(2014年10月25日の日記)
10月12日書楼弔堂 破暁 探書伍 闕如
前振りの長さがちょっときつい。
同じ会話を弔堂の主人か京極堂としたらおもしろかったろうが、少々長くて前半疲れた。
ただ巌谷小波が出て来てからは一気におもしろくなった。
彼自身の魅力もあるし、高遠や弔堂主人との会話もいい。

観念的にも「闕如」が一番共感しやすく、わかりやすい。
本書に登場する本は全部読みたいと思うのだが、巌谷の本はとても読んでみたいと思う。
「御伽草子」の言葉の言われも新発見。

読み終えてからWikipediaで巌谷小波の生涯を追ったが、なんとなくこういう人がいたという漠然とした知識はあった。
それが「巌谷小波」であることまでは知らなかったが。
Wikipediaの巌谷小波の項に「大語園」について触れられていないのはおもしろい。
残すところあと1話、続編の情報はまだ出てないのかなあ、もったいない。
(2014年10月12日の日記)
9月29日書楼弔堂 破暁 探書肆 贖罪
「書楼弔堂 破暁」の感想も4話目に入る。
壱、弐、参と綴って来たが、4話目ではたと手が止まった。
「四」に当たる漢字は何?
というよりこの漢数字は何?

Wikipediaによると、これは「大字」と言い、「単純な字形の漢数字の代わりに用いる漢字」なのだそうだ。
改ざんされないようにお札や領収書で使われ、なるほど「萬」や「拾」は知っていた。
と、思いがけなく勉強したところで、今回の感想を、とまたその前に。

今年の8月もぎりぎりで「全生庵」の幽霊画を見て来た。
今年は特に、本書に登場する月岡芳年の「宿場女郎図」が楽しみだった。
元々好きな絵ではあるけれど、本書に登場したことにより、これまでとはまた違った視点で見れるかもしれないと。

ところが啞然愕然としたことに、今年はなぜか「宿場女郎図」が展示されていない。
50幅あるうちから毎年代わる代わる交換して展示するとはいえ、月岡芳年クラスになると、毎年公開がお約束。
私も毎年通っているけど、円山応挙、鰭崎英朋らと並んで、何はなくとも必ず飾られる絵である。

さらに伊藤晴雨の「怪談乳房榎図」もなければ、川端玉章もない。
なんで〜と思ったら、何と今年は7月19日〜8月31日まで千葉県立中央博物館大利根分館で「あなたの知らない世界」 と題した展示が行われ、そちらに数点貸し出してしまったのだそうだ。

全生庵所蔵以外の河童や地獄絵図なども展示されているとのこと、興味はあったがいかんせん遠い・・・。
今年はちょっとがっかり気分で帰って来た。
ところで私、月岡芳年と言えば「宿場女郎図」と騒いでいるが、本書の表紙も月岡芳年の「うぶめ」である。
慶應義塾大学所蔵だが、残念ながら実物を見ることはできず、大学ホームページのデジタルギャラリーでのみ閲覧可能となっている。
それだけに間近でケースなどの障害なしにしっかり見れる「宿場女郎図」に思い入れが深い。

さて本書に戻って今回のゲスト?はジョン万次郎と「人斬り以蔵」こと岡田以蔵。
このコンビには驚いた。
当然この2人の関わりが最後に記されているが、それにしても、である。
以蔵の描写にちょっとだけ京極堂シリーズの匂いを感じた。

以蔵に関心があるという高橋留美子さん、この本読んだかな?
でもメインの話よりもうなぎの描写があまりにおいしそうで、読んだ後は頭がうなぎで一杯になってしまったのが我ながら情けない(笑)。
(2014年9月29日の日記)
7月22日書楼弔堂 破暁 探書参 方便
1話目は衝撃的だったが、パターンがわかってしまったため、2話目は割と落ち着いて読んだ。
でも3話目になってまたおもしろかった。
メインとなる人物が井上圓了であることも良かったが、さらに勝海舟が出て来る(木場修太郎だと思ったら勝海舟だった、笑)。
さらに勝海舟評として福沢諭吉まで取り上げられているのだ、おもしろくないわけがない。

例によって圓了が妖怪博士となるまでのいきさつ、というよりそのきっかけが弔堂の主人によって与えられる。
内容は難しく、一度読んだだけではなかなか理解し難いが、ここまで来て、この主人、一体何者?感がどんどん強まる。
ただ今回は私、途中で「彼」が圓了であることはわかったし、本もわかった。
京極堂シリーズを読んでる人は気づいたんじゃないかな?

最終話によって高遠にも一冊の本が渡されるだろうが、その本は?という疑問も湧いてくる。
早く続きが読みたい。
余談だが、以前妖怪公園(哲学堂公園)に行ったことがある。 →「犬夜叉考察5参照
この本を読んでから行ったらもっと身近に感じるかもしれない。
というか、少しは井上園了の意図が理解できるかもしれない。
(2014年7月22日の日記)
7月13日書楼弔堂 破暁 探書弐 発心
2話目に登場するのは泉鏡花。
さすがに彼が出た時点で、彼こそが〇〇だったという展開になるんだなとわかったし、1話目の月岡芳年ほどのインパクトは なかったが、鏡花の作品と尾崎紅葉、そしていくつかの情報だけでよくもこれだけの物語を、と思う。
畠の芋之助までもが伏線だったとは。
まるで鏡花と友達だったの?知り合いだったの?どうしてそんなに詳しいの?と京極さんを問い詰めたいほど。

本の内容はもちろん情報全てが京極さんの血となり肉となっているのだろう。
残念ながら私は「高野聖」を読んだだけで、泉鏡花の世界観はよく知らないし、尾崎紅葉は読んだことがない。
ちょっと恥ずかしい。

最後まで読めば主人公、弔堂の主人、しほるの正体がわかるのだろうか。
いえ正体と言うのはおかしいか。
高遠はともかくとして、書楼の2人は気になるが、正体を知った時はこのシリーズが終わる時なんだろうな。
一応新シリーズとあるので、2冊目も出ることを期待したい。

でもやっぱり「鵺の碑」を先にお願いします。
(2014年7月13日の日記)
7月1日書楼弔堂 破暁 探書壱 臨終
このところずっと派手派手しい表紙の本ばかり読んでいたせいか、「書楼弔堂 破暁」を買った時はそのシンプルで 幻想的な表紙が嬉しくて、抱きしめて帰った。
傷まないようにカバーを取ったらさらにシンプルで、胸の上に抱きしめたまま眠りにつきたいと思ったくらい(笑)。
京極堂か、このシリーズの新作のめどがつくまで読むの我慢しようかなあと思いつつ、壱話目「臨終」は一気に読み切ってしまった。

嬉しい。
なぜこんなに嬉しいか。
私は京極さんの書いた物語った事を全部読んでいるわけではないので、これまで京極さんが「全生庵」の幽霊画について 語ったことがあるかどうかは知らなかった。
妖怪好きの京極さんの事、何度も観に行っているに違いないと思ってはいたけれど。

最初はいかにも京極さんらしい文章だなあと思いながら読んでいたけど62ページ
「それはそうとー米次郎様は三遊亭圓朝の高座をご覧になったことはございましょうか」
の台詞でおっと身を乗り出した。

三遊亭圓朝。
江戸時代末期から明治時代に活躍した落語家で、怪談噺の創作のために集めた幽霊画も有名だが、この幽霊画が谷中の全生庵に 保存されていて毎年8月に一般公開される。
私も毎年欠かさず観に行っているが、(「その他の世界をたどる道(一)」 と「その他の世界をたどる道(二)」参照)、ケースに納めたりせず、 目の前で見る幽霊画は恐ろしくも美しく、「鳥肌美」なんて言葉を思いつくほどの迫力だ。

その圓朝の話題が出て来たのだ。
しかも話はそのまま幽霊画へと移って行く。
書楼の主人が圓朝の話をした相手は、月岡芳年その人だった。
後で知った、表紙の姑獲鳥も月岡芳年の絵だった。

私が全生庵で好きな幽霊画ベスト3は有名な円山応挙(とされる)幽霊画、幽霊が凄味のある美しさの鰭崎英朋、そして月岡芳年。
「幽霊画」と銘打ってはいるけれど、月岡芳年は「宿場女郎図」というタイトルで、描かれているのは生きた女性である。
病に侵され、もはや生ける屍にしか見えない女性を残酷に写し取っているその絵は、ある意味幽霊以上の怖さと哀しさを持って見る者に迫ってくる。
そう、月岡芳年は「見た物しか描かない」絵師だった。

第壱話「臨終」はこの月岡芳年の特徴を見事に膨らませて物語に仕立て上げている。
感想を書くまでは第弐話は読むまいと決めているので、まだこの後の展開はわからないが、この書楼の主人や語り部となる男性よりも 月岡芳年の強烈さが身に染みる。

京極さん、描いてくれて本当にありがとう。
第弐話は鰭崎英朋、第参話は川端玉章が出て来て語ってくれたりしたら嬉しいなあってあまりに安易か(笑)。
それにしてもやっぱり新鮮な感想は書きやすい。
書きたい時に書かないと、感想はあっても文章になかなかならない。
感想を書くことは本当に難しいとつくづく思う。
(2014年7月1日の日記)
6月26日 小説以外の「魍魎の匣」
京極堂シリーズの中で、「魍魎の匣」だけが映画化、アニメ化、漫画化されている。
映画については正直「小説とは別物です」としか言いようがないのだが、小説を読んでイメージしていた風景と 映画で見た景色の違いには驚いた。

私のイメージだと、眩暈坂は何故か両側が黒塗りの塀になっており、坂を上ると京都は嵯峨野のような竹林。
その間に濃い茶色や黒を基調とした京極堂。
中はひたすら暗く、部屋から見る外だけが眩しい。
そんなイメージ。

「姑獲鳥の夏」で「貧弱な竹藪」と書いてあるのと、雑司ケ谷鬼子母神の緑に覆われた境内がごっちゃになったに違いない。
でもお店が予想以上に綺麗で明るく、いつもメンバーが集まる座敷も明るかった。
これは映画化の功名、たぶん京極さん自身のイメージからは大きく外れていないと思う。
たあ眩暈坂だけは、こんなにでこぼこしてたら、眩暈どころかねんざしそう、転がりそう。

見た目は普通の坂なんだけど、気づかないくらい微妙に歪んでて、だから知らずに歩いて眩暈を起こすじゃいけないのか?と 思ってしまった。

でも志水アキさんの漫画でもこんな感じだったのでちょっと意外だった。
志水さんと言えばゲーム「戦国BASARA2」の第弐衣装がかっこ良くてお名前覚えたのだけれど、コミック「魍魎の匣」の 表紙はちょっと苦手で手が出なかった。
でも友達に勧められて読んでみてたちまちハマった。

あの難しく長い文章、薀蓄、ストーリーを、よくもここまでまとめあげたものだと思う。
作品に対する愛情ももちろんだけど、読みこなして100%理解していなくてはとても無理なのではないだろうか。
読んでいて無駄と思えるところはないし、必要なのに抜けてると思うところもない。
他の作品も続々漫画化されているようなので、全て読むつもり。

アニメも良かった。
最初はキャラがずいぶん麗しいなあと思ったけど、作品そのものは丁寧に作られていたと思う。
私は「鉄鼠の檻」を見たいのだが、その後アニメも映画も出てないな・・・。
(2014年6月26日の日記)
6月12日 面霊気
終わってしまった、榎木津主役の?外伝・・・。
京極堂が主役の本編はおもしろいけど陰鬱な雰囲気で、こちらは超がつくほどはっちゃけてる。
このバランスが絶妙で、つい交互に読んでしまうのだけど、「面霊気」は現在出ているところの外伝最終話、寂しい。

これだけで1冊の本になりそうなほど長いけれど、前振りが同じような会話が延々と続くのでちょっとだれる。
でも今回は今川が登場したのと、本島が見た目は平々凡々、中身も平々凡々でありながら、時折見せる読みの鋭さが おもしろかった。

結局染まってるというか、どっぷり浸かっているんだもんなあ。
それだけ濃い面子であり、何だかんだ言っても魅力的?なのだろう。
私だったら毎日京極堂に通う自信がある(笑)。
教えを乞うて、無知をさらけ出して罵倒されて喜んでそう。

最後の「手紙」の件もおもしろかったが、何よりのサプライズは榎木津の父君登場場面だった。
刑事コロンボの奥さんよろしく(古い?)、キャラは立つけど表に絶対出ない人物だと思っていたらあっさり。
でも榎木津とはあんまり似てなくて、これは是非絶世の美女(だったはず)母君に登場して欲しい。

というか話題になってもなかなか出ない「鵺の碑」他止まっている京極堂シリーズを早く出して欲しい。
本家でも外伝でもどっちでもいいから。
「書楼弔堂 破暁」もがっつりおもしろかったけど、京極さんには京極堂物とその他の作品を交互に凄い勢いで 書いて欲しいととんでもなく我儘な願いを思ってしまう。

それと最後に反省。
こんなに京極堂シリーズの感想書きたくて作ったコンテンツなのに、始めてみたら全然書けなかった。
いかに読みこなしていないか、いかに理解していないか思い知らされることばかりだった。
本当は「考察」も書きたかったのに。
感想書いてる間に読むのは苦痛で、感想書き終わったらまたおもしろく読むことができた。
難しい作品ではあるけれど、構えちゃ駄目なんだな、素直な気持ちで向き合わなくては。

100回くらい読んだら少しは理解できるようになるだろうか。
次回から漫画やアニメ、映画の話題に移ります。
(2014年6月12日の日記)
5月23日 雲外鏡
京極堂シリーズは、どの作品をとっても奇想天外なストーリーが特徴だが、京極さんが凄いのは、奇想天外だけど ありそうな物語に仕上げてるところ。
でもさすがに「雲外鏡」はいくらなんでも木島さん騙され過ぎでしょと思ってしまった(笑)。
小さなネタを、無理矢理大きくしているかな?って感じ。

逆に気持ちいいのは中禅寺敦子の描写。
榎木津の言葉通り、見事なほど理屈っぽいけど、女性だけに口調が柔らかく、わかりやすい。
京極堂シリーズに敦子がいなかったら、かなり華やかさに欠けたと思う。
京極堂と関口の妻たちは、あまり事件には関わらないからなあ・・・。

雲外鏡は、京極堂シリーズの他に、「うしおととら」「境界のRINNE」と私のお気に入り作品にも登場する。
是非共演・・・は無理か。りんねとうしとら版の雲外鏡なら大丈夫かも。
(2014年5月23日の日記)
4月28日 五徳猫
「京極堂と仲間達」と「宮部みゆきと時代物」を立ち上げた時、予定では本の感想だけでなく、本に登場する場所を回って その感想も書こうと張り切っていた。
ところがあっという間にどちらも挫折。

まず京極堂シリーズは、作者である京極さんが「姑獲鳥の夏」で雑司ケ谷の病院のこと書いたら、実際にあって驚いたと 書いてあるように、場所が特定されないように書いている感じがする。
中野の京極堂や、神保町の榎木津のビルなども探しに出かけたことはあるが、それらしき坂も、坂の上の神社も見つけることができなかった。

ちなみに宮部さんの場合は、ほとんど池波正太郎時代小説と被ってしまうのだ。
現代物も並行して書き、まだ若い宮部さんに比べ、池波さんはエッセイはともかく、ほとんどが時代小説の連載だったので、出て来る地名は 本当に多い。
当時の主だった土地はほとんど網羅しているのではないかと思うくらい。

そのせいで、京極物も宮部物も思ったより書くことないなあとがっかりした。
ただこの「五徳猫」は「豪徳寺」という現存するそのものずばりが出て来る数少ない作品。
無数の招き猫も見たいし、いつか行きたいと思っている。
ちょっと行きづらい場所にあるのがネックだ。

それともうひとつ、この「五徳猫」に出て来る奈美木セツが好き。
極端にミステリアスな各話ヒロインをのぞけば、あまり印象に残らない女性陣の中、このセツが一風変わっていておもしろい。
中華丼の模様に描いてある唐子のような顔つきというのも可愛くていいじゃないか。

最後もほのぼのしてて楽しかったし、セツには番外編にはどんどん出て来て欲しい。
そのためにも京極さんには京極堂シリーズをどんどん書いて欲しい。
(2014年4月28日の日記)
4月11日 山嵐
サイトを通じて知り合った友達に教えてもらって、「十二国記」や「精霊の守り人」シリーズにハマった私。
逆にうちのサイトで知って、「十二国記」や「海街diary」を読み始めた人もいる。
これらの2つはだいたい気に入られるみたいだけど、難しいのが「しおととら」と京極夏彦。
「読んでみたけど、難し過ぎて駄目でした〜。」「読んでみたけど、絵が駄目でした〜。」との声が多い。
どっちがどっちかは言わずもがな(笑)。

京極物に関しては、そんな人には「百器徒然袋」をお勧めしている。
京極物で、短くて読みやすいと三拍子揃ってるから、これでも駄目ならもう駄目だ。
主役は榎木津だけど、京極堂が「姑獲鳥の夏」などの本来のシリーズとは別人みたいにおかしい。
いえ、キャラとしての性格設定はそんなに違わないんだけど、やることなすことがおかしいのだ。

と、ここまで書いて思ったんだけど、長編よりこっちの方がアニメ化ドラマ化映画化しやすいんじゃ?
京極さん!お願いします!
京極さんの一声で即決しそうだから、是非是非アニメ化ドラマ化映画化を!
薀蓄少な目だしアクションバリバリだし、見ごたえある物できますよ!

さて「山嵐」。
普段はバラエティ番組もコメディ映画もまず見ない私、声出して笑うなんてことは滅多にないのだけれど、
これ読んだ時は大笑いした。
おなか痛くてもう笑うのやめたいのに、止まらなかった、それほどおかしい。

キーワードは「干し大根」って書いただけでパソコンの前で薄ら笑いを浮かべてしまう、気持ち悪い(笑)。
普段あれだけ能弁な京極堂が、突然閃いてしまう、しかも以心伝心それがみんなに伝わってしまう。
その瞬間が好きだ。
今回は私の大好きな関口まで巻き込まれて、しかも大根だけに下金(おろしがね)になってしまった下僕、じゃなく僕。
タイトルの山嵐は二の次で、でもちゃんと自分の役目を果たしていたし。

ああ読んで欲しいなあ、皆さんに読んで欲しいなあと本をパソコンに押し付けたくなる。
それと続き書いて欲しいなあ、長編でも短編でもいいから京極堂物書いて欲しいなあと京極さんに お百度参りもしたくなる(笑)。
(2014年4月11日の日記)
3月29日 瓶長
釜の次は瓶。
「瓶長」は、「水瓶が目鼻と口を備えたような姿で描かれており、石燕の解説文によれば、瓶の水を汲んでも決して 水が尽きることのない、いわば幸せの入った瓶」であると、Wikipediaに記されている。
「鳴釜」は最初が嫌な事件から始まったので、しばらくこの「薔薇十字探偵」の雰囲気にうまく乗れないまま 読んで行ったが、「瓶長」に入り、榎木津がどんな馬鹿やってくれるか(笑)、京極堂が、榎木津に引きずられてどこまではじけるか、 最初からドキドキワクワクで読み始めた。

鳴釜事件の責任の一端は「僕」にあるとはいえ、「僕自身も日当を貰っても良いくらいあれこれ働かされた」し、 「僕が付けた火種に油を注いだのはーしかも大量に注いだのは榎木津自身」とは「僕」の 考察もなかなか鋭い。
お礼だ何だと言いつつ、「僕」自身が榎木津たちの強烈な魅力に絡め取られつつあるのは明白で、 羨ましいような可哀そうなような、滑稽なような、複雑な気持ちになる。

今回の事件は「鳴釜」とは異なり、しっちゃかめっちゃかな形で始まるが、最後はちょっとしんどい終わり方をする。
ドタバタ喜劇の流れの中で、スエだけが壷に取り憑かれ、翻弄される。
「瓶」長なのに「壷」に取り憑かれた女性。
話がおもしろいだけに、スエの心中を思うと本当にしんどい。

今回は待古庵こと今川雅澄も登場するが、陰の主役は関口巽。
「関口さんは、この人(榎木津)に苛められるためだけに親交を結んでいるような、奇特な御仁なのです」と今川に言われる。
「この人はいつかどこかで会った何とかと云う名前の人だ」と榎木津に紹介されるのと同じくらいひどい。
でもこの頃は榎木津がまだ「僕」に気を使ってるんだろうな、一応紹介しているし。

榎木津は親しくなればなるほど遠慮がなくなる。
私は榎木津のそんなところも好きだ。
(2014年3月29日の日記)
3月4日 鳴釜
今回から番外編「百器徒然袋 雨」の感想に入る。
今回は第一話「鳴釜」。

我ながら迂闊な話だが(我ながらこんなミスがほんと多い)、今この瞬間まで「百鬼徒然袋」だとばかり思っていた。
もう何度も読んでいるのに、私の目と頭が「器」と「鬼」の違いに気づかなかったらしい。
こういう間違いも京極堂に解説して欲しい、散々けなされるんだろうな(笑)。

さて「百器徒然袋」は元々は、178年(天明4年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集(Wikipeiaより)。
上中下と三部構成になっており、それが京極版では「雨」「雲」「風」の三冊分割になっている。
そして「鳴釜」。
岡山県吉備津神社の鳴釜神事が由来とされ、この話が物語のモチーフとなっている。
が、これを読んで映画「犬夜叉 紅蓮の蓬莱島」を思い出したのは私くらいではないだろうか(笑)。

初めて読んだ時、謎解き役が京極堂から榎木津に変わったくらいの知識しかなかった私に、この話は衝撃的だった。
表と裏なんて可愛らしいもんじゃない、榎木津が「破壊することによりなぜか解決」のパターンがこんなにハマるとは。
本編で榎木津がやたらはしゃぎまくる場面はあるが、その場面は明るくなっても、本編自体は鬱々として暗い。
主役の京極堂自体が暗くて黒いので、何の違和感もないのだが、番外編はカメラのフラッシュ光っぱなしみたいな、 妙な眩しさと際どさに、読んでる方も妙に躁状態になってしまう。

番外編にだけ登場する語り手というか主役というか、「僕」として登場する木島俊夫と共に引きずり回され振り回されて、 でも最後に見事に解決?するこのカタルシス!
顔に似合わぬお茶目な?京極堂にもときめいて、最高の読後感。
本編と番外編のバランス、天秤の片側に京極堂が正座して芥川を読み、片側で榎木津かラテンダンスを踊っているような、 でもそのぎりぎりのバランスが本当に気持ちいい。

「鳴釜」に出て来る篠村美弥子がまたかっこいい。
よくいるタイプのお金持ちのお嬢様と思いきや、卑怯者の(夫になるはずだった男の)顔を張り飛ばし、鮮やかな啖呵を切る。
「あの」榎木津が呆れ、圧倒されるほどのかっこ良さ。
美弥子もこの後準レギュラーとして出て来てくれるかと期待してたが、残念ながら「鳴釜」だけで出番は終了。

「僕」こと木島はこの後、「下僕」としてひどい目に合いつつも、薔薇十字探偵団?から離れることができない。
行けば必ずひどい目に合うし、京極堂には忠告されるし、でも懲りない。
わかるなあ、その気持ち(笑)。

私の知り合いには、京極堂シリーズ読んでみたけど、難し過ぎて、あるいは長すぎて駄目だったという人が何人かいる。
その人たちに「百器徒然袋」シリーズを勧めたら、みなさん見事にハマってくれた。
そのうち何人かは、京極作品に慣れて、本編に戻って来てくれた。
あの厚さに抵抗ある人は、番外編から読み始めるのもありかと思う。
「僕」は出て来ないけど。
(2014年3月4日の日記)
2月9日 邪魅の雫
★軽くネタバレ入ります。

ややこしいのが特徴の京極堂シリーズだが、そのややこしさが今作においてはストレートにおもしろさにつながらなかったかな?というのが 第一印象。
要はこちらの読解力が不足しているのだ。
京極堂、榎木津といった設定を把握しやすいキャラ以外のキャラがやたら多く、しかもほとんどがねっとり系で、何らかの形で 他作品とリンクしていて、となると何度読んでも混乱してくる。
関口と違って彼らのモノローグは読むのが辛い。

もうひとつはタイトルにもなっている「邪魅」がそれ自体も曖昧だが、話との関わりも曖昧で、何故邪魅なのかがいまいち掴めなかった。
でも一番大きかったのは、榎木津を人間として描写始めたことではないだろうか。
榎木津は初登場時は自分の気持ちを中途半端に口にしたりしていたが、その後は自ら語ることなく、周りから見てよくわからない人物として 設定されている。
その榎木津を今回主役(出番が多いという意味の主役ではなく)に据えたことにより、榎木津の魅力が私には半減したように思えた。
榎木津は下手に人間味など見せず、わけのわからないキャラとして突っ走って欲しい。

よく理解できないという理由で何度も読み返すという意味では、この本も何度も読んでいて、「姑獲鳥、魍魎、鉄鼠」のおもしろい本ベスト3と 同じくらい読み返している。
犯人の心情もよくわからない。
むしろ「絡新婦の理」の犯人の方が同じ女性でもまだ共感?できたかな?と思う。
事件が大きく広がり過ぎたせいだろうか、とぶ厚い本を見ながら思う。
榎木津や京極堂たち超人クラスと江藤、大鷹などの?クラスのちょうど間に位置する益田や青木の描写が良かったと思った。
(2014年2月9日の日記)
1月26日 陰摩羅鬼の瑕
小説としてもおもしろさはともかくとして、京極堂シリーズの謎解きは、「えっ?」と首を傾げるのがほとんどだが、その中でもこの 「陰摩羅鬼の瑕」が一番突拍子もないというか、共感しにくいというか理解し難いオチだった。
トリック?としてはむしろ途中で気がついたくらいでむしろわかりやすい。
でも「まさかそんな結末にはならないだろう」と思った、まさにそのことが起きたからかえってびっくり。

「姑獲鳥の夏」よりも「魍魎の匣」よりもあり得ると思いやすいのに思えない、それは陰摩羅鬼の謎(犯人の心理)が一番常識に 近いからだろうか。
姑獲鳥や魍魎クラスになると、常識から離れすぎてむしろ納得できるけど、陰摩羅鬼はあり得そうだからかえってあり得ないと思うような?
ちょっとややこしいけれど、そういう意味では陰摩羅鬼は京極堂シリーズ長編の中では一番読みやすい。

そして陰摩羅鬼の中には、なんと横溝正史が登場する!
ここを読んだ時は、私もかなり興奮した。
余談だが、京極さんが書いた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」小説版を読んで、こち亀そ世界に老いた京極堂が登場した時と 同じくらい興奮した。
関口巽の鬱すら治す横溝正史!

反面陰摩羅鬼のヒロインであり、被害者である薫子があまりに常識的なまっとうな人間なのが物足りなかった。
いえ犯人じゃないのだからミステリアスな女性である必要はないわけだが、京極堂シリーズの姑獲鳥の久遠寺涼子、塗仏の佐伯布由のような 不思議な雰囲気を纏った女性が好きなのでちょっと寂しい。
薫子は敦子や千鶴子、雪絵と同じ世界にいる女性だ、物足りない。

その常識性ゆえに、伯爵の心理も理解することなく死んでしまうのだけど。
薫子は幸せだったのだろうか、不幸だったのだろうか。

哀しい事件だったが読後感はいい。
「山形さんと栗林さんは、支給されたお金で白樺湖畔に小さなバンガローを建てて、亡くなった方の菩提を弔いながら伯爵の帰りを待つんだと、 そう書いてありました」
愚直なまでの執事、そして赤子のごとく常識を知らない、でも聡明で公明正大と評される伯爵由良昂充、そして伯爵の膨大な蔵書を一手に引き受けた 京極堂こと中禅寺秋彦。

彼らのことが木場、関口らによって語られる。
関口はこの後雪絵と買い物に行くらしい。
木場により馬鹿(京極堂)、ボケ(榎木津)、カス(関口!)の言葉が出た時は、爆笑しながらちょっぴり涙がにじんだ。
(2014年1月26日の日記)
12月16日 塗仏の宴 宴の始末
「塗仏の宴」を読み終えての感想は「関口さんをいじめるな!」これに尽きる(笑)。
これまでもいじられキャラ、というより彼が窮地に立たされないと事件にならないし解決しないという重要と言えば重要、どうしようもないと言えば どうしようもない立ち位置に置かれていた関口だが、今回のはひど過ぎる。
いえ緒崎がひどいのではなく、作者がひどいのである。
これでは事件が解決しても関口が立ち直れる気がしない。

そしてここで初めて存在感を見せる雪絵がいい。
それまで物静かな女性、控えめなイメージしかなかった雪絵が思いがけない強さを見せる。
まだその心理状態の描写はないが、今回敦子、雪絵が日常の中の登場人物を越えた存在感を見せた。
次は千鶴子に期待したい。

そもそも関口と雪絵のなれ初めが謎。
あの関口がどんな形で結婚にこぎつけたのか、推理できる読者はおそらくいないだろう。
行き倒れた関口を助け起こしたとか、入院した関口を看病した看護婦だったとか、そんな母性本能をくすぐられた、というより哀れまれた? 印象しかないのが情けないけど。

「塗仏の宴」はストーリーそのものよりも、レギュラー陣に作者が慣れて、読者が慣れて、その関わりや会話をじっくり読み込むのがおもしろい作品になったと思う。
たとえば木場を語る青木と河原崎、潤子と京極堂、もちろん青木が1人で木場の事をあれこれ考える場面もある。
木場の実家の状況、京極堂と潤子の会話を聞こうととする益田。
もちろん「姑獲鳥の夏」の頃から登場人物同士の会話や気持ちの描写はあったが、これまで文章として読んでいたのが会話として聞こえてくるようになったというか。

クライマックスにかけてはアクション超大作映画で見たいような壮大な場面になるが、「始末」はあれっ?て感じ。
「to be continued」であるような、ないような中途半端な感じ。
京極堂が出張ったのだから、ここはきっちり決着をつけて欲しかったと思う。

とにかく登場人物が多く、難解で何度読んでも理解し難いが、今回のゲストヒロイン?布由や朱美、潤子、茜に比べて圧倒的に多く登場するもののいまいち影が薄い男性陣が気になった。
存在感を見せていたのは光保と羽田隆三くらいか。
とはいえこれだけ厚みのある本の2冊セットとなると何度読んでも飽きず、旅のお供に最適とも言える。
重いのだけが欠点だが、私は未だに紙本派なので京極本を読み始めると、どこに行くにも持って歩く。

普通の文庫本のように電車で立って片手で読めないし、開いて置けないので、何か食べながら読めないなどと不便は多いがそれでもいいんだ、京極堂だもの。
これまで2度映画化されて成功したとは言い難かった京極堂シリーズだけど、この「塗仏の宴」は意外とできそう・・・無理か・・・。
登場人物が多すぎるけどカットできる人がいない。
堤さんの長語りなどはおもしろかったし、さっきも書いたクライマックスに向けて集結する部分などおもしろい画面になりそうなのになあ。
(2013年12月16日の日記)
12月2日 塗仏の宴 宴の支度
★ネタバレを含みます★

厚いだけあって、さらに登場人物があちこちの作品でリンクしていることもあって、とにかく人物の相関関係(人物同士、作品同士)がややこしい京極堂シリーズだが、 これまではなんとか把握しつつ読んで来た。
でもこの「塗仏の宴」に至って遂にギブアップ。
本にメモを挟んで、手書きの相関図を作って読み比べた(笑)。
さすがに何度も読み返した今ではだいたい把握できてるが、そのメモは今でも本の間に栞代わりに挟まっている。

なにしろ「宴の支度」だけでも煉瓦本と言っていい厚さなのに、続編?とも言える「宴の始末」が同じくらいの厚さで続くのだ。
この後、「陰摩羅鬼の瑕」でちょっと落ち着くが、その後の「邪魅の雫」でまた大変なことになる・・・。

さて、「塗仏の宴」で印象的な人物は多いが、私はなぜか中禅寺敦子が気になった。
この作品で初めてその心模様が描かれる敦子。
自分の意志を貫くあまり、暴漢に襲われて怪我までする。

以前書いたように、京極堂シリーズにヒロインとして、あるいはゲストとして登場する女性は皆、不思議な雰囲気と美しさを持っているが、京極堂の妻、関口の妻、 そして敦子は綺麗な女性ではあるものの、あまり目立った描写が少ない。
いや描写はあるのだが、あまりにも完璧で当たり前の人たちで、悪く言えば京極堂や関口のキャラを際立たせるための存在にしか見えない。
強いて言えば、関口や京極堂とのなれ初めから結婚するまでの経緯を知りたい程度かな?
敦子もあまりにいい子で頑張り屋で素直で優しくて頭が良くて・・・、ところがその敦子の認識が今回変わる。
さすがに京極堂でこれをやるのはタブーだろうが、千鶴子や雪絵はやって欲しいかも。

他に気になるのは布由か。
竹久夢二の絵のように綺麗な女性なのだが、描写だけを読んでると綺麗というよりセルロイドの人形のように思えてくるから不思議。
実写化、アニメ化されたらどんな風になるのか見てみたい。
でも誰がなっても、どんな風にデザインされても合わないと思うんだろうな。
作者の京極さんにキャラデザインを担当してもらえないだろうか。

もう一人、会えるならぜひ会いたい人が光安公平。
京極堂との会話があまり楽しそうで、仲間に入れて欲しいなあと本気で思った(笑)。

ところで今回重大なモチーフとして「津山事件」が登場する。
横溝正史「八墓村」でもモデルとなった有名な事件だが、あえて調べたことはない。
(拒否反応を起こしてしまう)。
それでもこうしてさまざまな作品に出て来るので、あらましは知っているが、小説はやはり現実とは違う。

ロマンの香り溢れるファンタジーにしてしまうのだから、そしてその中で人間だけがリアルな人間模様を繰り広げるのだから、横溝正史はおもしろいし、京極夏彦はおもしろい。
ただ「塗仏の宴」自体は、京極堂シリーズの中で特別好きな作品、というわけではない。
何度も書いているように、姑獲鳥、魍魎、鉄鼠が私のベスト3。
モチーフとなる妖怪がなじみやすいせいもあるかもしれない。

★書き終えて気づいたけど、ネタバレなかったような・・・(笑)。★
(2013年12月2日の日記)
11月15日 絡新婦の理
★ネタバレを含みます★

個人的に好きな作品ベスト3には入らないけど、よくできた作品ベスト3には入ると思っている。
まずは冒頭の会話。
最初、京極堂が負けたかと思い、次に本編を読んで、読み終えてまた冒頭に戻り、愕然とした。
「こんな意味があったのか!」
そこからまた読み始めたくなり、何度もループするから困る、厚いのに(笑)。

ただしこの作品の本当の衝撃は、この後に出たある作品で、これほど狡猾に事件を操ってのけた犯人が、あまりにもあっさりと 殺されてしまったことにある。
まあこれ以上奸計を張り巡らす必要はなかったとはいえ、あまりにも無防備で、しかもその時置かれていた状況を考えられると 信じられない最後だった。

作者である京極さんがどんなつもりでこんな展開にしたのかはわからないが、発売当初は抗議が殺到したのではないだろうか(笑)。
「絡新婦の理」を読み終えてみれば、これはかなり魅力的な犯人だった。
ただし、登場した頃から、この人物が犯人だな、という見当はついていた。
理屈も何もなく、ただの勘。

でも一癖も二癖もある人物ばかりの物語の中で、あまりに真逆の存在であったから逆に怪しいと言う典型的なパターン。
実は「鉄鼠の檻」も同じように、「この人が犯人じゃない?」とかなり早いうちに思えたので、京極さんはそれほど犯人を隠す気はないのかもしれない。
「ミステリ」でありながら、それほど「ミステリ」の定義にこだわっていないというか。
まあトリック自体が正統派?ミステリとはかけ離れているので、いかに伏線を張り巡らせつつ犯人を隠すか、ということに重点は置かれていないようである。

むしろ犯人が、なぜ、どのようにして、そして「関わる人物の心をどのように操って」より事件を複雑にまとめ上げるか、その緻密に練り上げられた 部分が主体となる。
そうでなくては、ミステリとして読んではいられない。
「妖怪小説」とも言われるが、妖怪すら出て来ないのだから。

ところで先日「安倍晴明 陰陽師・闇の支配者」を読んだ。
この中に、小説「陰陽師」の原作者である夢枕獏さんと、漫画化した岡野玲子さんの対談がおもしろかったのだが、2人が幽霊について話す部分がある。
それを読みながら、この夏行った京極さんのトークライブを思い出した。
ちなみに京極さんは、幽霊は絶対いないと断言する人である。

対談で、夢枕さんは信じる信じないの話ではないけれど、柳の下に幽霊が出るとして、その柳を切ってしまったら幽霊はどうなるだろうというまあ、幽霊が存在する ことを前提として、突き詰めて調べてみたいと話していた。
これ、おもしろい。
確かに幽霊は柳がなくなってもそこに出るのか、あるいは出ないのか。
じゃあ柳を移植したら幽霊も移動する?

これに対して京極さんは、仮に幽霊が存在すると仮定して、地球上に人間がいなくなったら幽霊もいなくなるとする。
つまり、見る人が(見たと思う人が)いなければ、幽霊は存在しえないのである。
これなどは結局は逆説的に幽霊を否定しているのだろうけど、たまたま読んだ本で、京極さんの幽霊観と似たようなテーマの夢枕さんの幽霊に関する話。おもしろかったので 書いてみた。

ちなみにどちらも私の好きな作家。
(夢枕さんは読まない小説もたくさんあるが)
今度テーマを「幽霊」で対談してくれないかなあ。
(2013年11月15日の日記)
10月8日 狂骨の夢
★ネタバレを含みます★

「狂骨の夢」、京極堂シリーズの3作目にあたる作品だが、前にも書いた通り、読んだのは4番目。
京極堂シリーズのタイトルを思いつくままに並べてみると、たぶん出て来るのが一番最後になると思う。
もちろん嫌いではないし、おもしろいと思って読むのだが、他の作品に比べるとちょっとインパクトは薄いかな?と思う。

そんな中、私が好きなのが一柳朱美。
京極堂シリーズのヒロインの中では珍しく?常識人で、しかも狂骨後もいくつかの作品に登場し、元気に活躍する(笑)。
世話好きで気が強く、姉御肌な感じがいい。

2人の女性の入れ替わり?の謎はわりあい早く解けたが、なぜ死んだはずの男が何度も生き返るのか、そのトリックは最後までわからなかった。
まあシリーズそのものが論理的に考えればわかるようなトリックではないから、わからなくても当然なのだが、相変わらず「えっ?」と思うような答えが用意されている。
ある意味禁じ手で、でもシリーズが「推理小説」と銘打っていない以上、なんでもありの世界なのだろう。
ちなみに私はこんな展開好きである。
さらに突っ込めば「妖怪小説」ですらないのだが。

ストーリーに直接は関係ないものの私が好きなのは久保竣公の葬儀の場面。
「魍魎の匣」の中心人物の1人で、最も非道な残虐者であり、同時にもっとも哀れな、生まれながらにして哀れな被害者でもあった男。
その久保の葬儀を中禅寺秋彦が執り行う。
その部分は、関口巽 と宇田川崇が出会うために書かれた場面で、中禅寺の滔々とした語り以外の意味を持たないのだが、そのしんとした中に漂う寂寥感に、 自分も久保の葬儀に参列しているような、そんな妙な現実感を感じた。

もう1か所のお気に入りが朱美といさま屋こと伊佐間一成のやり取り。
朱美と京極堂、朱美と榎木津、朱美と関口などいろいろ想像して楽しんだ。
比較的まともな会話が成立するのは京極堂と木場くらいで、あとはなんとなくとんちんかんな流れになりそう。

シリーズ中では珍しく読後感がいいのも特徴で、事件自体も他と比べると陰惨な色合いが少ない。
逆に言うと、だからこそ印象が少ないのかもしれないが。
ただ登場人物が多く、いろいろな場所でいろいろなパターンの出来事が同時進行するのは相変わらずとしても、今回はとても把握しにくい。
特に降旗の部分は何度読んでも頭から逃げてく気がする。

あと作品とは全然関係ないのだが、「狂骨の夢」を読んでいる頃、ちょうど「犬夜叉」に七人隊の「凶骨」というキャラが出て来て、よくメールやサイトで「凶骨の夢」と書いたり、 「今週の狂骨あっけなかったね。」なんて書き間違えてたのもいい想い出。
さらに先日ブログにも書いたが、小野不由美「ゴーストハント読本」を読んでいたら、寄稿者の中に一柳廣孝さん(怪談や都市伝説などに関する著書の多い大学教授)と 井辻朱美さん(ファンタジー研究家)が並んでて名前を合わせると「一柳朱美」になるのに気がついた。
まさかモデルじゃ?なんて思ってしまった。
(2013年10月8日の日記)
9月15日 鉄鼠の檻
★凄絶にネタバレを含みます★

「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」と来て、順番からすれば次は「狂骨の夢」なのだが、私は間違えて「鉄鼠の檻」を読んでしまったので、今回はこちら。
しかも好きな京極堂作品ベスト3が姑獲鳥、魍魎、鉄鼠だからこの順番の方がしっくりする。
京極堂との出会いの姑獲鳥、猟奇的かつ複雑な事件が絡んだ魍魎、そして一番読み返しごたえのある鉄鼠、といったところだろうか。

確かに京極堂シリーズは、妖怪その他に関する様々な薀蓄や、京極堂の口を借りた京極さんの理屈など、何度読んでも難しく、人間関係も入り組んでいて、おもしろいけど難しい。
でも鉄鼠の場合はちょっと違う。
作品内で繰り返される禅問答にハマってしまったのだ。
ハマると書けば語弊があるか、失礼か。

とにかくわからない。
中で語られているように、これは一生懸命理解しようと悩んでいるうちは、考えているうちは絶対に理解できないもの。
ある日突然悟るもの。
大悟は問題外としても、ある日突然閃いてみたいではないか。
その日を夢見て何度も読む。
何度も何度も読む。

でも何も考えずに受け入れる、これほど難しいことはない。
昔坐禅に何度か参加したことがある。
座っているのは簡単だったが、「無我の境地」には絶対になれなかった。
簡単になれたら大変だが、それにしても難しかった。
何かに集中している時ならともかく、ただ座っていて何も考えずにいるなんて不可能だった。

それと同じで何度読んでもわからない、でもそこがいい。
事件も確かに陰湿でおもしろいが、内容そのものよりも鉄鼠の場合は、この禅問答とキャラを読む。

キャラ、登場人物と言えば、今回私の一押し関口巽は影が薄い。
代わりに目立つのが今川雅澄。
でもそれより気になったのが、「あの」久遠寺嘉親。
姑獲鳥において、家族を凄惨な形で一度に失ったあの人物である。

久遠寺の立場で語る場面はないので、最初は意外と元気そう、と嬉しくなったが、読み進めるとやはり傷は癒えていないのだと、おそらく癒えることはないのだと思い知らされる。
それでも京極堂シリーズにおいて、レギュラー陣以外も様々な形でリンクすることを知らなかったので、これは嬉しい驚きだった。
そしてもう一人、私が一番好きだったのが、老師大西泰全。
「きらびやかな袈裟を纏った高僧の姿を勝手に想像して畏まっていた関口たちが「肩透かしを喰った」、その姿は煤けた袖無を羽織っただけの枯れた老人。
飄々として心は豊か、言葉は深い。

実は私、この面会を通じて、大西が犯人だと思った。
でも大西が(許しがたいことに!)あんな形で殺され、愕然としながら読み進めて、途中で犯人がわかった。
片っ端から疑ってかかったわけではない。
だいたい私はミステリにおいて、犯人を推理しながら読むことは、まずない。
時々「この人が犯人だ」と「直感」することがあり、それはほとんど当たるが、推理して当てたのではなく、感覚でわかっただけである。

これぞまさに大悟!と思わず手を打って喜んだが、冷静に読み返すと、「わかるように書いてある」ことに気づく。
この文章が伏線である、と具体的に言えないのが恥ずかしいが、読んでいくうちにこの人物が犯人であることがわかってしまうのである。
ミステリとして稚拙と言いたいのではない、作者は犯人をあからさまにしてはいないけれど、特別隠そうと、読者を惑わそうともしてはいないのではないだろうか。

そしてこの厚さ。
異論はあろうが、京極物は厚ければ厚いほどいい。
作品が醸し出す雰囲気。
雪の白さ、僧たちの清廉な空気、水墨画のような風景に枯れた老人と異相の男がかわす会話。

京極堂や関口が登場する前から一気に鉄鼠の世界に引き込まれた。
今出ている中で一番読み返す回数が多いのがこの「鉄鼠の檻」なのである。
(2013年9月15日の日記)

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